アッサラーム・アライクム!
北海道の西の果て、日本海から吹きすさぶブリザードの中で髭を凍らせている元駐在員、アブ・イサムです。
今朝の気温は氷点下12度。窓の外は、見渡す限りの銀世界です。
中東の砂漠にいた頃は、気温50度の世界で「暑すぎて死ぬ」と思っていましたが、人間というのは不思議なもので、マイナス10度の世界でも意外と適応して生きていけるものですね。
さて、冬本番。都会にお住まいの教育熱心な親御さんたちは、お子さんの冬休みの過ごし方に頭を悩ませているのではないでしょうか。
「ずっと家にいてゲームばかり…」「冬期講習で塾漬けにするのもかわいそうだし…」
そんな悩みをよそに、我が家の小学5年生の息子は、学校から帰るなりスキーウェアに着替え、スキー板を担いで一目散に外へ飛び出していきます。
目指すは、家の真裏にある「裏山」です。
今回は、この「裏山でのスキー遊び」が、今、教育界で最も注目されている「非認知能力」を育む上で、どんな高額な英才教育プログラムをも凌駕する「最高の教室」であるというお話をしたいと思います。
1. 都会の「課金型」自然体験の限界
私も東京にいた頃はそうでしたが、都会の親は子供に自然体験をさせるために、安くないお金と労力を費やします。
週末に渋滞に巻き込まれながらスキー場へ行き、高いリフト券を買い、スクールに入れてプロのインストラクターに教えてもらう。
もちろん、それはそれで楽しい思い出になりますし、スキーの技術は上達するでしょう。
しかし、「生きる力」を育むという観点から見ると、そこには決定的なものが欠けています。
それは「不便さ」と「余白」です。
整備されたゲレンデ、至れり尽くせりのレンタルショップ、困ったらすぐに助けてくれるスタッフ。
すべてが「お膳立て」された環境では、子供は受動的な消費者にしかなれません。そこでは、自分で考え、工夫し、困難を乗り越えるというプロセスが発生しにくいのです。
2. 僻地のリアル:リフトのない「専用スキー場」
一方、ここ僻地でのスキーは、まったくの別物です。
息子の遊び場である裏山には、当然ながらリフトもゴンドラもありません。きれいに圧雪されたコースもなければ、パトロール隊もいません。
あるのは、腰まで埋まるパウダースノーと、静寂に包まれた木々の迷路だけ。
ここを滑るためには、まずスキー板を履いて、自分の足で雪山を登らなければなりません。一回滑り降りるたびに、汗だくになって斜面をハイクアップする。
一本滑るための労力が、ゲレンデスキーとは桁違いなのです。
しかし、息子はこの不便極まりない「専用スキー場」に夢中です。
なぜなら、そこには誰にも邪魔されない自由があり、自分の頭と体を使わなければ攻略できない、本物の冒険があるからです。
3. 裏山が鍛える3つの「非認知能力」
今、教育の世界では、IQや偏差値のように数値化できる「認知能力」以上に、意欲、忍耐力、自制心、メタ認知といった「非認知能力」が将来の成功や幸福度を左右すると言われています。
この「数値化できない人間力」こそが、AIが台頭するこれからの時代に最も必要とされる能力です。
そして、この非認知能力は、塾のペーパーテストでは絶対に育ちません。
裏山でのスキー遊びは、まさにこの非認知能力を鍛えるためのトレーニングジムのような場所です。
① GRIT(やり抜く力・粘り強さ)
リフトのない裏山では、滑りたければ登るしかありません。
新雪に足を取られ、転んで雪まみれになりながら、それでも「あの斜面を滑りたい」という一心で、歯を食いしばって登り続ける。
誰かに強制されたわけでもないのに、自ら困難な目標を設定し、それを達成するために泥臭い努力を続ける。
このプロセスは、まさに非認知能力の中核である「GRIT(やり抜く力)」そのものです。
すぐに結果が出ないと諦めてしまう都会の子が多い中、息子は「一本の快感」のために、何十分もかけて登る労力を惜しまなくなりました。この粘り強さは、将来どんな分野に進んでも彼の強力な武器になるはずです。
② 創造性と工夫する力
裏山にはコースがありません。どこをどう滑るかは、完全に自分次第です。
「あそこの木と木の間をすり抜けよう」「あっちの吹きだまりでジャンプしてみよう」
地形を読み、雪質を見極め、自分だけのオリジナルラインを創造する。これは、与えられた課題をこなすだけの勉強とは対極にある、クリエイティブな活動です。
また、遊び道具も自分たちで作ります。雪を積み上げてジャンプ台を作ったり、秘密基地のような雪洞(せつどう)を掘ったり。
「ないものは自分で作る」「環境に合わせて遊び方を工夫する」。この野生的な創造性は、お膳立てされた環境では決して育ちません。
③ リスク管理能力と自己責任の感覚
整備されていない自然の山は、当然ながら危険と隣り合わせです。
雪の下に隠れた木の根、予期せぬ急斜面、天候の急変。
息子は経験を通じて学びます。
「この雪の感じは、下手に突っ込むと埋まるな」「そろそろ日が暮れるから帰らないとヤバイぞ」
自分の能力と自然の脅威を天秤にかけ、ギリギリのラインを見極めるリスク管理能力。そして、何かあっても誰も助けてくれないという自己責任の感覚。
これは過保護な環境では絶対に身につかない、生物としての根本的な「生きる力」です。親としてはハラハラすることもありますが、命に関わらない範囲での小さな失敗や恐怖体験は、彼を大人にするための通過儀礼だと思って見守っています。
結論:最高の教育環境は「不便さ」の中にある
僻地に移住して痛感するのは、「不便さは、教育における最高のスパイスである」ということです。
便利すぎる都会の生活は、子供から「自分で考える機会」や「工夫する余地」を奪ってしまいます。
親が良かれと思って提供する「至れり尽くせりのサービス」が、皮肉にも子供の非認知能力の芽を摘んでしまっているかもしれないのです。
教育熱心な親御さんほど、子供に何かを「与えよう」としがちです。高額な教材、有名な講師の授業、特別な体験プログラム…。
しかし、子供が本当に必要としているのは、そうした既製品の知識や体験ではなく、自分自身の力で世界と対峙し、試行錯誤できる「手つかずの環境(余白)」ではないでしょうか。
ここ僻地には、そんな贅沢な余白が無限に広がっています。
裏山から帰ってきた息子は、雪だるまのように全身真っ白で、鼻水を垂らしながらも、その目はキラキラと輝いています。
「父ちゃん!今日の雪、最高だったよ!あの斜面でさ…」
その興奮した様子を見るたびに、私は確信するのです。
偏差値やテストの点数には表れないけれど、この子は今、人間として一番大切な根っこの部分を、この大地に深く深く伸ばしている最中なのだと。
さあ、私もそろそろパソコンを閉じて、息子の「専用スキー場」へ繰り出すとしましょう。
最近は私の体力の方がついていかず、「お父さん、遅い!」と置いていかれるのが悔しいのですが、それもまた幸せな時間です。
