灼熱の中東シリアから極寒の北海道へ。私が「僻地」を選んだ理由。

灼熱の中東シリアから極寒の北海道へ。私が「僻地」を選んだ理由。

アッサラーム・アライクム。(あなたの上に平安がありますように) ブログ管理人のアブ・イサムです。

今、私は北海道の西の果て、日本海に面した小さな村でこの記事を書いています。 窓の外は一面の銀世界。昨晩から降り続いた雪は、すでに私の腰の高さまで積もっています。気温は氷点下8度。外に出れば、海から吹きつける猛烈な季節風が、容赦なく体温を奪っていきます。

ここでこうして熱いコーヒーをすすりながら、ふと、数年前の自分を思い出すのです。

あの頃、私が見ていた景色は、見渡す限りの赤茶けた大地と、強烈な太陽でした。気温は50度近く。空気が熱を帯びて揺らぎ、蜃気楼の向こうにラクダの隊列が見える。 私がいたのは、中東、シリアでした。

気温差、およそ60度。距離にして約8,000キロ。 灼熱の砂漠の国から、極寒の雪国へ。

なぜ、私はこれほどまでに極端な人生の選択をしたのか。 なぜ、多くの人が憧れる便利な都会ではなく、わざわざ「僻地」と呼ばれるこの場所を選んだのか。

このブログは、世界を見てきた一人の男がたどり着いた、これからの時代を賢く生き抜くための「戦略的僻地移住論」の記録です。 最初の記事となる今回は、その原点となった私の体験と、このブログにかける想いをお話しします。

記憶の中の美しいシリア

「シリアにいた」と言うと、多くの人は眉をひそめ、「危険な国」「紛争地帯」というイメージを抱くでしょう。 確かに、現在の情勢は心が痛むものです。しかし、私が駐在員として家族と共に暮らしていたのは、いわゆる「アラブの春」の混乱が始まる少し前。そこには、今の報道からは想像もつかないような、平和で穏やかな時間が流れていました。

首都ダマスカスは、世界最古の都市の一つとして知られ、歴史の重みと活気が共存していました。迷路のようなスーク(市場)にはスパイスの香りが漂い、人々の威勢のいい声が響き渡る。一歩路地裏に入れば、静謐な空気が流れるモスクがあり、人々が熱心に祈りを捧げている。

私が最も愛したのは、シリアの人々の人懐っこさと温かさでした。 異教徒であり、東の果てから来た見ず知らずの私たち家族を、彼らは「ようこそ、我が兄弟よ」と家に招き入れ、食べきれないほどのご馳走でもてなしてくれました。

彼らの生活は、決して物質的に豊かとは言えません。最新の家電もなければ、娯楽施設も少ない。 しかし、家族の絆は驚くほど強く、週末には親戚一同が集まって、ただお茶を飲みながら何時間も語り合う。そんな光景が日常でした。

彼らの瞳は、いつも穏やかで、満ち足りていました。

崩れ去った「日本の常識」

もちろん、最初から彼らを理解できたわけではありません。 正直に告白すれば、渡航前、私は彼らの文化や宗教、イスラム教に対して、ある種のステレオタイプな偏見を持っていました。

一日五回の礼拝のために仕事を中断することへの非効率さへの苛立ち。ラマダン(断食月)の習慣への戸惑い。女性たちのヒジャブ(スカーフ)に対する、どこか「かわいそう」だという勝手な思い込み。

心のどこかで、「経済大国である日本の方が進んでいる」「私たちの価値観の方が優れている」と、無意識に見下していたのかもしれません。

しかし、彼らと生活を共にし、言葉を交わすうちに、私の薄っぺらな「常識」は音を立てて崩れ去っていきました。

彼らにとっての信仰は、生活の一部であり、心の平安を保つための大切なシステムでした。 非効率に見える習慣の裏には、貧しい人々への配慮や、共同体を維持するための深い知恵が隠されていました。

ある日、シリア人の友人が私に言いました。 「アブ・イサム、日本人は働きすぎだよ。そんなに働いて、いつ家族と過ごすんだい? お金は墓場までは持っていけないだろう?」

ハッとしました。 物質的な豊かさを追い求めるあまり、私たちは何か大切なものを見失っているのではないか。 「先進国」という傲慢な色眼鏡で世界を見ていたのは、他ならぬ私自身だったのではないか。

つくづく、自分自身が思い込みの激しい人種であり、ある意味で「心の狭い人間」になっていたのだと思い知らされました。 世界はこんなにも多様で、幸せの形は一つではない。シリアでの日々は、私の凝り固まった価値観を解きほぐし、物事をゼロベースで考える視点を与えてくれました。

都会のラットレースからの逸脱

帰国後、私は日本の都会での生活に強烈な違和感を覚えるようになりました。

毎朝、死んだような目をして満員電車に押し込まれる人々。 終わりの見えない長時間労働と、過労死のニュース。 少しでもレールから外れることを許さない、息苦しい同調圧力。 そして、将来への不安を煽り、高額な教育費や住宅ローンへと駆り立てる社会システム。

「これが、世界に誇る経済大国、日本の姿なのか?」

シリアで見た、あの穏やかで満ち足りた人々の顔と、今の自分たちの状況が、どうしても重なりませんでした。私たちは、まるで回し車の中を走り続けるハムスターのように、終わりのない「ラットレース」を強いられているように思えました。

当時、息子はまだ幼かった。この子を、この競争社会の中で、すり減らしながら育てていくことが、本当に親としての正解なのだろうか。

「違う、そうじゃない」 私の内なる声が叫んでいました。

次の生活拠点を決める岐路に立った時、私の目の前には二つの選択肢がありました。 一つは、このまま都会のレースに留まり、少しでも有利なポジションを目指して走り続ける道。 もう一つは、レースそのものから降りて、全く別のルールで生きる道。

私は後者を選びました。 それも、中途半端な郊外ではなく、徹底的に「都会的価値観」から離れた場所へ行こうと決めました。

それが、ここ北海道の「僻地」でした。

「僻地」という戦略的選択

多くの友人は、私の決断を奇異な目で見ました。「なぜわざわざ不便な田舎へ?」「子供の教育はどうするの?」「仕事は?」と。

確かに、ここは不便です。コンビニまでは車で20分。冬の厳しさは想像を絶します。都会のような刺激的な娯楽もありません。

しかし、シリアで培った「常識を疑う目」で見れば、ここは可能性に満ちた「ブルーオーシャン」でした。

都会が失ってしまった、圧倒的な大自然というインフラ。 驚くほど低い生活コスト。 地域コミュニティの中で、人と人が助け合って生きる実感。 そして何より、競争から解放されたことで手に入れた、家族と向き合うための莫大な「時間」。

「僻地=都落ち」「僻地=不便で貧しい」というのは、都会のモノサシで測った一方的な見方に過ぎません。 グローバルな視点で見れば、日本の僻地ほど、安全で、自然が豊かで、しかも低コストで質の高い生活が送れる場所は、そうそうないのです。

私は感情や憧れだけでここに来たのではありません。 自分と家族の人生を最大化するための、極めて冷徹で、合理的な「戦略」として、この地を選んだのです。

このブログで伝えたいこと

このブログのタイトルは『賢いパパは「僻地」に住む』としました。 少し挑発的に聞こえるかもしれません。しかし、これからの時代、既存のレールを疑い、自分の頭で考え、自分たちにとっての最適解を選び取れる人こそが、真に「賢い」生き方ができるのだと私は信じています。

これからこのブログでは、アブ・イサムが見た「僻地のリアル」を包み隠さず発信していきます。

息子の教育環境がどう変わったか。 具体的な生活コストはどうなったか。 もちろん、雪かきの辛さや、田舎特有の人間関係の難しさといった、きれいごとではない部分もしっかりとお伝えするつもりです。

もしあなたが、今の都会での暮らしに少しでも息苦しさを感じているなら。 もしあなたが、子供にもっと広い世界を見せたい、たくましく育ってほしいと願っているなら。 あるいは、これからの日本でどう生きていくべきか迷っているなら。

ぜひ、このブログを覗いてみてください。 砂漠の国を経て、雪国にたどり着いた一人の男の試行錯誤の記録が、あなたの「賢い選択」の一助となれば、これ以上の喜びはありません。

さあ、そろそろ雪かきに戻らなければなりません。このブログが、同じ時代を生きる同志たちとの、よき出会いの場となることを願って。

北海道の西の果てより、愛を込めて。 アブ・イサム